文學之道

司馬遼太郎

    在都柏林的街道上,一邊南下,我也一邊思索著這個城市、古都、甚至是「文學之道」。因為對愛爾蘭這個國家來說,最自傲的正是他們的文學。

  來到這個街道,大概所有人都會想到詹姆斯˙喬伊斯吧。

  但是,知道是一回事,能否深入理解又是另一回事。文學並不像那些畫作或是音樂,是能夠跨越國界的。舉例來說,能夠體會在喬伊斯的長篇小說《尤利西斯》之中華麗的言語表現、各式各樣的呈現方法,以及其中每一個隱喻,那大概就是和喬伊斯一樣以英文為主語的人吧。而且,就算是同樣以英文為主語的人,必須是誕生在因為被攻佔而使用英文的愛爾蘭,而非發源地的大不列顛島。甚至,沒有與喬伊斯相當的語言涵養的話,恐怕也很難理解吧。

  但,若是閱讀短篇故事集《都柏林人》的翻譯本對我們來說就相當有趣。

  上述的兩個作品,他們的共同點在於愛爾蘭人內心充滿曲折的部分。

  在這樣曲折的狀況下,他們也特別加入了一種用漢字表達的骨氣。愛爾蘭人雖然是個令人操心、卻也是個有骨氣的民族。他們具備如同死神般自嘲的冷幽默,也擁有使人感覺像是病狗奮力爬起般淒慘的威嚴如此獨特的修辭學。

  這些雖然是喬伊斯天生就具備的才能,但一般的愛爾蘭人似乎也擁有。

  話雖如此,一般來說,為了躲避語病,一定也有各式各樣的愛爾蘭人就順勢成為了「典型」的愛爾蘭人。

  對於愛爾蘭人「典型」的性格,只要一旦成為模範,就很容易被戲劇化。

  而談到餐桌上的話題,就會想到由克林˙伊斯威特所主演的刑警片系列電影《緊急追捕令》。名為哈利的刑警是個極端的結論主義者、極為厭惡反派。在向反派角色挑戰時,會為了目的,固執而義無反顧的前進,有時更會罔顧常識、慣例跟法律。如此強烈的專注力正是愛爾蘭人典型的個性使然:厭惡團隊合作,喜愛單打獨鬥。

  現今的愛爾蘭人缺少中世紀的愛爾蘭人所擁有的組織感、以及古代的愛爾蘭人受統治的性情。他們不像是近代的愛爾蘭人,而甘願在大型組織當中擔任零件的人也很少了!更進一步而言,他們缺乏「成為零件是件高尚的本分」這樣的觀念。總體而言,這些現在英國人所保有的性格,正是他們缺乏的。

  這位骯髒的哈利˙克拉潘在劇中被設定為一位愛爾蘭裔美國人。然而,作為一位有能力的刑警,他仍配有戶口名簿。這樣的能力以及活躍度,就像是古代的英雄。正因為在警察組織裡能獨自地憑藉著自己的力量對抗犯罪之類的,雖然這樣的行為很「古代」,但非常痛快。

  他唯一擁有的就是能夠自由行動,因此他在警察組織這樣的「現代」之中遭受到了各式各樣的障礙。然而,這正是電視劇所使用的表現手法。

  「為了能夠一個人將工作貫徹到底,需要擁有自己的哲學與理論」,這樣的台詞,對哈利那樣的愛爾蘭人來說才是現實。

  而且,愛爾蘭人也與生俱備一種修辭能力,足以排除來自署長及其部下想壓制住哈利這樣單獨行動的壓力。

  「這位主角就特別由愛爾蘭人擔任吧!」

  在規劃階段的製作者一定也是愛爾蘭人吧!

  「如果是愛爾蘭人的話不會不肯做」

  也就是說,這樣就能夠理解,為何縱使現代愛爾蘭人一般不願意、也要因為「典型的愛爾蘭精神」而成為在美國社會的愛爾蘭裔。愛爾蘭雖然仍是很有魅力的民族,卻似乎缺少了中世紀那樣的風範。


 

原文

 

文学の街

 

司馬遼太郎

 

 私は、ダブリンの街路にいる。この都市をことさらに文学の街(アイルランドにとってのお国自慢は文学である)と考えつつ、南へ下ろうとしている。

 

 この街に来て、ジェイムズ・ジョイス(一八八二~一九四一)のことを考えないひとは、まずいまい。

 

 ただし、理解はべつである。文学というものは絵画や音楽とちがい、国境を越えうるものではない。

 

 たとえば、ジョイスの長編『ユリシーズ』における華麗な言語操作と、多様な表現、それにその裏にいちいちかくされている隠喩を感じとるには、かれと同じように英語国民にうまれねばならない。おなじ英語国民でも、本場のブリテン島ではなく、征服されることによって英語をつかうようになったアイルランド島にうまれねばならない。かつかれとおなじだけの言語教養をもっていなければおそらくむりだろう。

 

 ただ短編集ともいうべき『ダブリンの人々』(DUBLINERS)は翻訳で読むわれわれにも十分おもしろい。

 

 右の二つの作品のどちらもが、アイルランド人らしい屈折にみちたものだという点で、共通している。

 

 この場合の屈折とは、漢語でいう気骨という意味も入っている。アイルランド人は気骨もしくは気骨の民族である。死神のように低温の自虐的なユーモアをもち、起きあがった病み犬のようないたましい威厳を感じさせる独特の(レト)(リック)をそなえている。

 

 これらはジョイスの才質の中にも含有されているが、アイルランド人一般のものでもあるらしい。

 

 一般といったが、語弊を避けるために、典型といっておく。アイルランドにもさまざまな人がいるはずだからである。

 

 

 

 典型となると、アイルランド人としての典型的性格は、演劇化されやすい。

 

 ごく茶の間の話題でいうと、クリント・イーストウッドが演じている映画『ダーティハリー』という刑事もののシリーズがある。ハリーという刑事は極端な目的主義者である。悪をはなはだしく憎んでいる。悪に挑戦する場合、偏執的に目的に直進し、常識や慣例、ときに法をさえこえてしまう。その強烈な集中力は、アイリッシュの典型的性格とされる。チーム・ワークをきらい、独力で戦う。

 

 アイルランド人は、組織感覚がなく(中世的である)、統治される性格ではなく(古代的である)、大きな組織のなかの部品で甘んじるというところがすくなく(近代的ではない)、さらには部品であることが崇高な義務だというところがうすい。それらは概してイギリス人が所有しているとされるものなのである。

 

 このダーティなハリー・キャラバンは、アイルランド系のアメリカ人という設定になっている。それが、有能な刑事として警察に籍をおいている。その能力と活躍は、古代英雄なのである。警察組織のなかで一人孤立して独力で犯罪に挑戦したりするのは、古代的だが、それだけに痛快である。

 

 かれが身動きするだけで、警察組織という"近代"のなかでさまざまな支障がおきて、それだけでドラマの綾をつくる。

 

 一人で仕事を押し通すためには自分だけの哲学と論理が要る。そういうセリフは、ハリーがアイルランド人であってこそ現実味がある。

 

 さらには、かれの独走をおさえこもうとする署長以下の圧力をはなのける修辞力が要る。そういう言語能力も、アイルランド人がもつ天賦のものなのである。

 

 「この主人公は、アイリッシュということにしようよ」

 

 と、きっと企画の段階で製作者がいったのであろう。

 

 「アイルランド人ならやりかねない」

 

 ということは、たとえアイルランド人一般がそうでなくても、典型として、アメリカ社会ではアイルランド系を、そのように理解しているのである。魅力的な民族だが、すこし中世的じゃないか、というふうに。

 

 

 

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